2008/04/29の滋賀県大津市の旅・「弘文天皇陵」編
上の写真は弘文天皇陵の写真1
弘文天皇という名前よりも大友皇子という名前の方がポピュラーかもしれない。 天智天皇の第一皇子であり、明治になってようやく天皇として認められたためだ。
上の写真は弘文天皇陵の写真2
あの壬申の乱での敗戦を想像すると泣けてくる。壬申の乱が記録された日本書紀は勝者の天武天皇系の血筋の治世に書かれたもの。
本来の正当性という面では天智天皇の後継者としては弘文天皇の方が勝っていたはずであり、大海人皇子(天武天皇)によるクーデターだったという推測は間違ってはいないだろう。
思えば弘文天皇は新都の近江王朝における最後の天皇なのだ。それが旧来の都があった飛鳥地方に勢力範囲を持った天武天皇に敗退してしまったわけだ。
このあたりの歴史は非常に興味深いものがある。白村江で唐と新羅の連合軍に敗れ敗戦した直後に、天智天皇は大津に都を移している。その後政情不安が続いたらしく放火事件が横行していた。
そもそも飛鳥における反天智派のようなものがいたからこそ天智天皇は大津に都を移したのかもしれない。大友皇子が即位したのはそのような混乱期だったのだ。
しかし日本の歴史の不可思議なところなのだが、この弘文天皇の子孫はちゃんと残り、特に有名な淡海三船などは奈良時代には出世し懐風藻などを著しているとも言われている。更には弘文天皇の血筋ではないが、天智天皇の別の系統に至っては光仁天皇、桓武天皇以後は現在にいたるまでの系統となっている。普通、内戦までして滅ぼした前政権の子孫は殺害されるか、良くて島流しされるなどして中央から遠ざけられると思うだろう。これは古事記などに出てくる長髄彦などを例に挙げるまでもあるまい。
とにかくも、よくはわからないが、結局当時の歴史の不思議を解き明かすには現在の感覚を捨て去るしかないのか、意外な秘密があったりするのか。まったくもって歴史は妄想すると留まるところ知らぬ面白さがあると言えよう。
■地図と行き方
・京阪石山坂本線の別所駅から徒歩10分。