2006年10月7日の旅の記録。
上の写真は恭仁京跡(旧山城国分寺跡)の石碑の写真。
首都制覇計画の一環として京都府加茂町(現・
木津川市)の恭仁京跡(山城国分寺跡)を訪問した。
さすがに跡地にすぎないだけあり七重塔跡の礎石群とその碑や大極殿跡の碑などがあるばかりである。
上の写真は石碑と七重の塔の礎石跡の写真。
恭仁京といえば、奈良時代に聖武天皇が遷都した都の一つに数えられる。
藤原不比等の息子たち(藤原四兄弟)や舎人親王など政治的実力者が疫病の大流行で相次いで死亡したり、藤原広嗣の乱による政局の混乱に嫌気が差して遷都したものだろうか?
平城京から、時の権力者に駆け上がり右大臣だった橘諸兄の本拠地である恭仁京に突然遷都することになった。天平12年(740年)の末のことだ。
この恭仁京も3年足らずの短期間で聖武天皇の気まぐれで捨てられることになってしまうが、「国分寺、国分尼寺建立の詔」と、「大仏建立の詔」が出されたことは日本史上に名高いだろう。
なお、次の都は甲賀市の紫香楽宮である。
上の写真は恭仁神社の写真。
近くにあったので恭仁神社にも行ったがここは特に無理して行くほどではなかったか。なにせ近くと行っても恭仁京跡からでも1キロ離れている上に駅から遠くなる。これも山の方角であり特徴的なのは狛犬と鳥居から本殿への距離の長さだろうか。
下二枚の写真は木津川を望む写真。素晴らしき日本の原風景だ。
木津川市(旧加茂町領域)はまさに原風景とも言えるような田舎であった。
駅前はさすがに大阪市の中心部まで大和路快速で1時間未満というだけあってマンションが立っていたりしていたが、1キロも歩くまでもなく、田舎ゾーンである。これは安土城の
安土町もかなり田園風景であったが、この加茂の方が一枚上手である。これで車と電信柱がなければ何時代なのかわからなくなるほどなのだ。車は仕方ないにしても、電信柱はやはり風景的に非常に邪魔であると改めて思ったのであった。ちなみに車は危険すぎるから地図にない裏道を通るわけで余計にそう思うのであった。
ちなみに木津川市の旧加茂町領域は歴史観光の宝庫である。他にも海住山寺や浄瑠璃寺などの国宝を有する寺が複数存在する。
海住山寺については、また木津川市のカテゴリにて、別途、稿を起こすので、見ていただきたい。
■地図と行き方
大阪方面からは大阪駅や天王寺駅などからJR大和路線の終点・加茂駅で下車。(京都方面からはJR奈良線・木津駅で、大和路線に乗り換え)
加茂駅から恭仁京跡までは徒歩でも20分程度で到着する。バスもあるので必要に応じて乗ってもいいだろうが、この日本の原風景の町は歩くことをお勧めしたい。
恭仁神社は更に恭仁京の奥に10分ほどの距離。同じ方向に海住山寺もある(恭仁京から更に20分の山道)ので合わせて訪問することも容易だ。ぜひセットで訪問したい(浄瑠璃寺、岩舟寺は反対方向なので乗り物必須)
(下記地図は恭仁京を中心にしているが、北に海住山寺、西に恭仁神社がある)
posted by アイナット at 12:17
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木津川
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