上の写真は甘樫丘説明の写真
甘樫丘は標高148mの丘陵である。
日本書紀の記録によれば、古墳時代の允恭天皇の時代にこの地で盟神探湯(釜で沸かした熱湯を使った神明裁判のこと。無罪ならば火傷をしないらしい)が行われたという。
また飛鳥時代には蘇我氏(蘇我蝦夷、蘇我入鹿)の邸宅があったとされる場所であり、その展望台から見える眺めを思うと、いかに蘇我氏が飛鳥の都において権勢を持っていたかが想像できようというものだ。
蘇我入鹿と蝦夷は日本書紀の言うように絶対悪であったのか、それとも仏教取り入れや聖徳太子からも分かるように国を思う改革派の急先鋒であったのかは想像するしかないが、その想像を大いに楽しめる場所と言えるだろう。
上の写真は甘樫丘展望台の写真
決して高くもなく容易に上れるため、明日香村を訪れたならば、ぜひ登って欲しい展望台である。
上の写真は甘樫丘展望台から甘樫丘から畝傍山(奥は二上山)を臨む写真
畝傍山は大和三山の一つ。甘樫丘は飛鳥の中心にあるため、この展望台からは全ての大和三山(畝傍山、耳成山、天香具山)を眺望することが可能だ。
上の写真は甘樫丘展望台から耳成山(右手前は天香具山)を臨む写真
上の写真は甘樫丘展望台から畝傍山(左)、耳成山(右)を臨む写真
上の写真は志貴皇子・歌碑の写真
甘樫丘には志貴皇子の万葉歌碑も置かれている。
・采女の 袖ふきかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く
志貴皇子は天智天皇の息子ではあったが、壬申の乱で兄で近江王朝側の弘文天皇(大友皇子)が敗退した結果、天武天皇系が天皇位を引き継いだため、政の世界からは遠ざかってしまった。
それがゆえに文化人として行き、万葉集にも多くの歌が残されている。
また本人は天皇にはなれなかったものの、末裔は奈良時代末期に息子の光仁天皇が皇位を継承したために奈良末期以後からは天皇家の直系と祖となった古都でも知られる。
未整理だが、その他の写真を下記に挙げておく。
■地図と行き方
近鉄電車で橿原神宮前駅や飛鳥駅まで行き、そこからバスやレンタサイクルを利用して行くのが楽である。
お勧めはレンタサイクルの利用。